大学教育は何も期待されてこなかった。

大学レベルの教育を必要としている人々なんて、極少数です。
少なくとも、大卒を雇い入れる企業は「大学で何を学んだか」なんて気にもしない。「どの大学を卒業したか」だけを気にする。
新入社員が最初にするのは何か。仕事ではなく、社員教育を受け、立派な社員になることだ。
「どーせ社内で教育するんだから、大学で何を学んでこようが関係ないよ」というわけだ。


一億総学力低下時代 (内田樹の研究室) http://blog.tatsuru.com/2006/11/22_1104.php

だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。

社内で教育しますので、ご心配なく。というのが多くの日本企業の方針。
大学までの教育内容だけで、その後の人生の全てを過ごしていけるだけの知識や技能を保てるという考えは、年功序列とともに崩壊しました。


世間の方はご存じあるまいが、大学レベルの教育にキャッチアップさせるために、当今の大学教師たちは十年前二十年前の大学教師たちには想像もつかないような「宿題」やら「補習」やら「添削」やらのオーバーワークを余儀なくされている。

世間に知られない努力を積み重ねても、それは教員の自己満足にしかすぎない。
ていうか、大学教師が世間を知らないだけではないのか?

「自分のパフォーマンスを上げる」ことと「他人のパフォーマンスを下げる」ことでは、どちらが多くの努力を要するか?
これも考えるまでもない。
自分が勉強するより、競争相手の勉強を邪魔する方がはるかに簡単である。

自分が勉強してテストで100点を取るのと、他の生徒の邪魔をしてテストの平均点を下げることとでは、どちらが多くの努力を要するか?
考えるまでもない。
競争相手の邪魔をするよりも、自分で勉強した方がはるかに簡単である。

だから、閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」にリソースを優先的に配分するようになる。

なりません。
なぜならば、他人のパフォーマンスの低下の原因を知る方法が無いからです。
自分が勉強して、成績があがった!因果関係は明白です。
しかし、他人の成績がさがった!という結果が判っても、その因果関係を知るのは困難です。
ほんとうに、他人のパフォーマンスを低下させることができるのか?そんな不確定な行動に時間をかけるよりは普通に勉強していた方が成績アップという確実な効果をあげられます。

授業中に立ち歩くのも、教師に食ってかかるのも、学校の備品を壊すのも、同級生をいじめるのも、自殺に追いやるのも、子どもたちにとっては結果的にはその時間粛々と勉強しているのと同じ(それ以上の)効果をラットレースでの「勝ち残り」という点ではもたらす。

なるほど!学校の窓ガラスを割りまくれば、成績が上がる…のか?
勉強で得た知識は自分のものになるけど、他人のパフォーマンスを低下させても何も残りませんよ。

だから、閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」にリソースを優先的に配分するようになる。

これって、大学教員のことですよね。
世間から隔絶された環境に置かれている大学教員の質が下がっているだけだと思う。

だいたい、昔のドイツがどこかの大学では、教授は講義のたびごとに、その講義に満足した生徒からもらう金で生計を立てていたそうだ。

自分の給料の額を合理的に説明できない教員や学部は全部潰してもいいんじゃないかな。
知識の保持はWEBだけでも充分なわけだし。



学力って本当に低下しているのだろうか? http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50695829.html

教室」となる「職場」や「過程」というのは、学ぶことに関しては「象牙の塔」ほど「最適化」されていなかった。

象牙の塔」は、塔の維持だけに最適化されていると思う。
使える・使えた知識だけを教える職場や家庭のほうが、その知識の学びに関しては最適化されているのではないだろうか。


小学生が九九や漢字を覚えないとしても、それを自らの意志で行っているなら、知力は格段に向上しているわけだし。