ジェンダーフリーを主張する人間は虐殺を行っちゃうかもね

http://macska.org/article/124#more-124

家庭や地域社会における男女の区別を撤廃するものでもない。ただ単に、学校において名簿を混合にするなどことさらに男女の区別を押し付けないようにしましょうというだけの話だ。

このように、学校と地域社会や家庭を分裂しよう・していて当然と考えている輩が、教師の特権意識を育て、教師によるレイプや殺人を招いた。
学校は地域社会の一部というのは自治の基本。


それにしても、この手の社会学者(w 同士の論戦はくだらないこと夥しい。
どちらも自分のファンタジー(良く言うならモデルか)設定をもとに当てこすりあいをやっているだけだからね。

常に変化し続けるのが生物。生物の表現形は内部要因と外部要因が複雑にからみあった中から現れる。人間も同じ。
その複雑な相互作用を見ずに、あるいは理解せずに、表現形を、社会や現実を変えようとすると、そこに虐殺が起こる。


複雑な成り立ちを持つ社会や文化を、浅薄な論理や理論だけで分析し、理解した気になり、変えられると勘違いした連中が行った結果が、ソビエト社会主義であり、中国の文化革命だった。アメリカの自由主義にもそういった面がある。
人を変えることで、社会や文化を変えようとした試みは膨大な死者を生み出しただけだった。


その末裔が日本にもいる。
ジェンダーフリーやら人権教育やらを声高に叫び、無知な人を啓蒙してあげようという善意に満ちた人びとです。
「私たちが提供する価値観は人類普遍の価値観なので、受け入れなさい! それを邪魔する、あなたたちの伝統や文化はは破壊します!」と、世界共通の価値観を教えてくれようとする親切な人びとです。

人類普遍の価値観を信じるということ。それは、やがては人類はその普遍の価値観に従って生きるだろう!、それが進歩であり、正しい歴史の流れなのだから、それに逆らう連中は皆殺しだ!というところまで行き着きます。
日本赤軍がまさにそれでした。


その対極に位置するのが、伝統的経験主義です。自らの伝統と経験に従って生きるが、それは自らのものであり、人類普遍の価値観ではないと考える人びとです。

山本七平によれば、鎖国を行っていた日本がそれでした。
「日本人は日本人の考え方でやっていくから、他国は邪魔するなよ」これが日本の鎖国による独立を支えました。

しかし、その鎖国が長く続いたため、海外からやって来る「人類普遍の価値観」と称する価値観に対する対処方法を学べなかった。そのために、明治以降の日本は、日本の伝統と経験から生まれた価値観と、「人類普遍の価値観」との関係をうまく把握できず、この両者が混合した、「日本の価値観は人類普遍である」「海外からやって来た価値観は何でも絶対」というような奇妙な考え方が猛威をふるったと山本七平は評しています。


ジェンダーフリーは、その奇妙な考え方の総決算でしょう。日本で生まれたのに、何故か海外の思想と思われたり、文化・社会が作り出した性差が!というわりには、性差とは何?といった調査は貧弱で、実現のための政治活動には熱心。論拠も日本ではなく、アメリカのデータや論文が使われたりする(アメリカの学校の事例が日本の学校にも、そのまま当てはまると考えるのは世界地図がバカの世界地図状態なのでしょう)。


日本は長い歴史を誇る国家です。困ったときは、歴史を振り返れば大概の事例はそこにあります。
男女の性差をどうするか? すでに我々の歴史の中に答えはあるのです。
ジェンダーフリーという怪しげな思想は不要なりよ。